人類が生き残るための方策として、
人を減らさない、ことがあります。
そのため、本人の意思であっても減ってもらっては
人類全体の生き残りのための(少なくとも安易な)方向性とは異なる方向にいきます。
そもそも、それを考えて、そのようなことをネットで検索したり、
さまざまな相談相手が存在している状況の人は、
そのような権限というか、資格というか、
まだまだ安直な発想の状態と言えます。
突き詰めて、突き詰めすぎて、むしろ欲張り過ぎて、
その発想しかなくなってしまった人、
もしくはそれほどの生きるエネルギーを使うことを選択した人、
彼らはおおよそ誰か、ひいては人類全体のために、注力した人であり、
生物の種としては、讃えられるほどのエネルギーを投資する状態を作り、
ある意味、貢献しました。
他者、社会から見たその行いが尊ければ、
エネルギーの消耗の経緯が理解されるならば、
権利はあると思います。
しかし、それ以外であれば、議論の余地がある行動と言えるでしょう。
それ以外というのは、方法を考えたり、その後の展開を予想したりできる
エネルギーが残っている状態であることです。
すなわち、このブログ記事のタイトル「尊さ」が伴うのは、
意図的なものでは成され得ない状態の話です。